ハンナアーレント

先日,映画ハンナアーレントをみてきました。主に50代半ばのハンナを描いた映画。
1961年,ナチの幹部アイヒマンが拘束され,イスラエルで行われることになった裁判を,ハンナが傍聴しその記録を雑誌に執筆(邦訳「イェルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」)。その内容に賛否両論というか非難ごうごう。アイヒマンを平凡な人と捉えたこと・ユダヤ人指導者がナチに協力したことがユダヤ人犠牲者を増やす一端になったというような主張をしたため…。

映画でハンナの主張を聞けば,私はハンナの主張はよくわかるというか,別にハンナはアイヒマンの擁護者なのではなく,利己心に基づく悪よりも怖い悪は,思考を放棄した凡庸な人間による悪であるというもの。ナチに限らずオウムなんかを例に挙げるまでもなく,よくわかる。ユダヤ人指導者の話についても,映画ラストシーンのハンナの大学での講義を聴けば,悪いのは,犠牲者側にさえもモラルハザードを引き起こした(=思考を止めさせた)ナチたちであり,ユダヤ人を侮辱しているわけではないというのも納得できる。
けれども,ハンナの周囲のユダヤ政治学者や友人たちは同じ講義を聴いても決して彼女を許さない。長年の付き合いのハンナと絶交する(その後仲直りできるレベルの絶交ではない)ショックを受ける。
私は,ナチのユダヤ人への行いを,当然ながら自分の体験としては知らなくて、「夜と霧」とか読んで追体験するのみで、ハンナの講義を聴いていた学生もそうだと思う。ハンナの主張への拒否反応は自分の実体験としてナチを知っている者でないと分かり得ないんじゃないかという気もする。一方で,見逃せないのが,ハンナ自身がユダヤ人で抑留キャンプにいた経験まであるということ。そうすると,彼女の執筆は,そうした拒否反応を超えた思考の結果だという説得力が増す。ただ彼女はここまでのユダヤ人をはじめとした拒否反応を覚悟していたのだろうか。映画では,そうでないという姿が描かれていたようだった。

感情に寄り添う思考をする人もそれを一種捨象した思考をする人も両方必要だと思う。自分だったら,仮に考えられてもこんな発表は出来ないな。夫がこういう思考の結果として発表した内容が世間から非難囂々になってもちゃんと味方してあげようと思いました。

映画全体,おもしろく,ハンナの夫との生活,煙草吸いまくりながら考える様子,大学での様子などなどすてきに描かれていて,かっこいい。アイヒマン裁判は実際の映像が使われている点も,実際のアイヒマンがどんなだったかをハンナと共にみることができ,とてもよかった。この時代のイスラエルの裁判の様子も興味深い。
そういえばすごく面白かった、キリスト教異端グノーシス派についての授業にもハンナアーレントでてきたな、何の関係だったかノートでも見返してみようかな。
ちなみに映画で、ハンナとハイデガーの情事は回想シーンでちらっとだけ。